スピッツの歌詞にみる絵画的側面

 

4月ももう終わりに差し掛かっておりますがいかがお過ごしでしょうか。

毎年桜の見頃が初旬であることを忘れて「アレ?散るの早くね?」ってなるのがもはや恒例となっているわたくしです。

どうでもE。

 

 

さて。

春という季節に似合う音楽といえば?と聞かれて、まあ…12人に1人くらいは彼らの曲を答えるんじゃないかなぁと思われるアーティスト、それがスピッツであります。

正確にいうとボーカル・草野マサムネ氏の声が比較的柔らかい性質であり、その要素が春を想起させるものである.....ということではなかろうか。

スピッツの曲が必ずしも春を表しているとかそういうわけではないってことですね。

 

そんなわけで春だし、スピッツについてなんとなく語るお(^ω^ )

 

 

 

 

 議題・意味深な歌詞の意味とは?

 

最初に言っておくと、私自身はスピッツどんぴしゃの世代というわけでもないし、アルバムを全て網羅しているわけでもありません。

なのである程度資料不足な部分はご承知ください。スミマセン。

  

で、今回は歌詞という観点に着目して考えていきたいと思います。

メロディーが音楽的にどう、とかいう話は残念ながらできません!嫌いだとか興味ないとかではないので悪しからず....

 

スピッツの曲の詞は全てが草野氏によるものですが、それがなかなかに興味深い。

スピッツは歌詞の世界観が好きです!という方もたくさんいらっしゃると思います。

 

 

 例えばコレ。

 

こぼれ落ちそうな 美しくない涙

だけどキラッとなるシナリオ

想像上のヒレで泳いでいくのだ

ヒリリと痛い昔の傷 夢じゃない    

 >『君は太陽』(2009)より歌詞引用

 

 

個人的に好きな歌詞の一つですが、この”何故か自分の体験と照合して共感出来る”感、ものすごくない? 

誰にでも当てはまるんだけど、個人個人の事情にぴったりと絡みついて心情を代弁する...っていうのはおそらく詩の性質の一つだ、と言えると思うのです。

 

しかし、草野氏の歌詞はこのように説教臭さがないのが特徴的です。

トーリー仕立てかというとそれにしては断片的すぎるし、細密な描写がそうさせている...というわけでもない。

 

 

では、なぜこんなに曖昧な言葉の連なりがこうまで具象的な感情の体現につながっているのでしょうか。

 

ここではこういった草野氏の歌詞の特性をドローイングであると述べます。

「ドローイング」の定義は人によりけりな部分があるのでアレなんですが...

 

ドローイングは製図、図面などの意味ももつが、美術用語としては一般に「線画」と訳される。これは線だけで描く絵(ライン・ドローイング)を指すものである。つまり、単色の鉛筆やペン、木炭などで線を引くという行為に重きをおいて描かれた絵を指す。これに対して、絵の具を塗ることに重きをおいた絵をペインティング(painting)という。ドローイングは、しばしば素描やデッサンと同じ意味で用いられることがあるが、これはいずれの画面も単色的であるという点、線的であるという点が、その特徴であるということによる。また、水彩画をウォーター・カラー・ドローイング(water−color−drawing)といって、「ドローイング」として扱う際には、ペインティングは油彩によるものを指すこともある。

 >『徳島近代美術館 美術用語詳細情報』より引用

http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/srch/srch_art_detail.php?pno=3&no=102

 

 

今調べててびっくりしたんですけど、私が長いこと当たり前だと思っていた「ドローイング」の解釈と結構差があって軽くショックを受けてる。まじか。

ま、まあ人それぞれだってことはわりとマジなので.....

 

 そんなわけでちょっと今重大なミスが発生したんですけれども、上の引用の解釈でいうと改めてスピッツの歌詞はペインティング的である、と言えるでしょう.....いや、もうどっちも同じようなもんなんで、言葉が変わっているだけだと思ってください。

何が言いたいかっていうと、歌詞を一つの作品として捉える上で非常にその「ドローイング」であったり「ペインティング」であったりする要素が強い、ということです。

 

 

(※ここからは私の解釈でお話しさせていただきますが、何度も言うけど一個人の捉え方だからね!)

ドローイングはもちろんそれ自体も作品になりうるものなんですが、試し書きのような感じで製作の過程で行うことが多々あります。

あるいは表現の追究のための手段として用いられたり。

 

つまり、ドローイングは感覚なのです。

 

対象物を観察して、それを模して描くのが中学校なんかで習う「デッサン」である、ということはよく知られていると思います。

まあさっきと同じようにデッサンも必ずしもそういったことが定義ってわけじゃないので絶対的な言い方はできないんですが、それに対してドローイングは単に模する、と言うより対象物を自分自身が『どう捉えたか?』『どんな感じ方をしたか?』という基準に従って再構築するものだと考えられます。

 美術表現において再構築っていうのは必須条件みたいなもんですが、ここでは狭義的に用います。

 

 

「再構築」ですから、そこにはちゃんと元のモノがあるのです。

全く姿形を変えていたとしても、理論上イコールで繋がるはずなのです。

 

要するに草野氏の歌詞は、解体されてまた組み直して全く別のカタチとなった概念的存在そのものだと捉えることができる...と思うのです。

 

 

言葉や一節の散りばめ方についてもそれが言えるでしょうね。

組み直す段階で紙に筆を走らせるような感じで草野氏が適当("適切"のほうの意)に言葉を置いていき、最終的にそれが一つまとまった何かを表しているように見える、というメカニズムです。

 

草野氏のすごいところは単語・述語・接続詞、さらには言い回し..といった日本語特有の言葉の奥ゆかしさ、難しさを、上で述べたように絵画的に再構築しているところだと思います。

やっぱり絵と文字だと感覚で操るにしてもその手法とかって全然変わってきますし、絵を描くような感じで言葉を使うって普通できないっすよ。

そこは才能なのかもしれないですね。

 

 

 

  

で、だ。

それらを踏まえて歌詞の「意味」について。

 スピッツの歌詞がなんだか意味深でー、みたいな話はよく耳にするのですが、確かにまっすぐに何かを指し表す言葉選びではない気がします。

 

陽の光まぶたに受けて真赤な海で

金縛りみたいに ごろごろもがいてる

とばせ!魂を 高い柵の向こうまで

白い小さな花になる いつかは

 >『心の底から』{『裸のままで』B面}(1993)より歌詞引用

 

 

さらっと歌っていらっしゃるけど、よくよく聞くと何言ってんだこいつ...っていうような歌詞だよね。詩っていうのは大体そうなんだけどね。

あとこの頃の曲はえらく不安定というか、沈みかけな感じがします。言い方はアレですけど躁鬱病のような印象を受けます。

まあそれは今はいいとして。

 

スピッツの詞に関してよく思うのは主語が不明確かつ流動的である、ということです。

 上の歌詞でいうと「まぶた」という言葉が出てきていることからこの一節での主語は人間であるか、またはなんらかの動物であることが窺えるのに、最後に「白い小さな花になる」っつって概念的な、物理的でないモノを主語に思わせているからよく分からない。

いやこれは比喩だろ!って言われたらまあそうなんですが、だとしたら比喩としての機能をあまり果たしていない比喩だと思う。

これは...うん..色々な意見があるところだとは思います。

 

 

先ほど述べてきた歌詞のドローイング性にこの意味深問題を照らし合わせてみると、さして深くないのではないか?ということが考えられる。

同時に我々がスピッツの歌詞に感じる深みは錯覚なのではないかということが言える。

 

言葉によって何か重大な物事を暗示させるような作りでは、ないと思うんですよね。

構成、という理論で捉えるとただ順番や位置が変えられているだけで、質量は何も変わっていないわけですから。

そういうのが含まれていても、真価はそこじゃないと私は思います。

でも人間ってそういう裏設定とか隠し持っているモノとかに興味を惹かれる生き物ですから、そこに目が行ってしまうんですよね。で、結構な人たちがそれを評価するから「深み」とかいう話になってくる。

だから 人間の人間による錯覚としての「意味深」なのではないでしょうか。

 

...なんか現代社会論みたいな感じになってしまった。

 でもまあ議題に沿って結論を出すならこういうことでしょう。

 

 

話が色々と飛びましたが、スピッツは歌詞の特性と合わせて演奏・歌声が入ることによって完成する....というか、やっぱり「音楽」という形で表出しているので鑑賞の仕方は絵画や詩とは異なってくると思います。

私も大前提として彼らが提示する作品としての楽曲を受け取りたいので、こんな過程を勝手に妄想するような陰湿なマネはほんとはあんまり良くない気もしますが!

ま、人間だもの。

 

 

というわけで最後は歌詞を引用した『君は太陽』のPVをば。


スピッツ / 君は太陽